1 誰かになることと、何者かになること

何も書けなくなって数ヶ月がたつ。
書くこと以外に楽しいことをいろいろ探してみたのだが、やはり私にとって書くことが一番楽しく、書けないことが一番きついのではないかと思う(空腹とか睡眠不足とか怪我病気を除いて)。
何か楽しいことがあっても「書くことのネタにしたい」と思うし、そう思えないなら経験自体色褪せるような感覚がある。

つまり今は何をしても楽しくない。

書くことで身を立てたいと思い、東京とインターネットで頑張っていたが、今ならすんなり認められる、はっきり言って自分の力不足だったし、身の程知らずなチャレンジだった。

一応インターネットで長年活動した者として、万単位にバズったこともあるし、出版社から声がかかったこともある、でもだからと言って何か実を結んだわけではなく、いまだ誰でもない。

ベトナムにいるといると誰でもなさは更に強まる。
誰も私を知らなく、自分が誰かを説明する言葉ももたず、ただの弱者である(外国人は弱者である)。

インターネットで日本とつながっていれば誰かでいられるのだが、私はここ数ヶ月間インターネットにほとんど何も出力してないので、本当に私は着々と誰でもなくなっている。渋澤怜って誰。

 

 

東京にいると簡単に誰かになれた。すごく狭い世界の話ではあるが、「あーTwitterで見た/文学フリマで見た/ライヴで観た……渋澤さんですねー」となったし、会う人ほぼ全てが知人の知人なので、共通言語が既にあり、話が早かった。

そういう共通言語を吸って、その中で受け入れられる文章を書くことは圧倒的に楽で、(うすうす飽きてはいたのだが)続けていた。

 


しかし誰かになることがゴールでもないし、誰かになるために書いてはいけない。絶対にいけない。

つい、書く前に、バズるか、とか、ウケるか、とか、誰向けか、とか、どの層向けか、とか、考えてしまう。その思考回路の先にあるのは他人の模倣でしかなく、それは私の何より嫌いなものなのに。

誰かになることを手放して、ただ書くために書けた時、私は、何者か(英語でいうsomebody)になっているだろう。

 


東京とインターネットで私が作り上げてきたものは間違いなく財産だし、それ自体を否定するつもりはない。突然の移住と言う乱暴な捨て方で捨ててしまった、と言うか、遠くにうっちゃってしまったのだが、それらが無い時よりもある時の方が私ははるかに生きやすくなったし、それらが無い世界に戻りたいとは全く思わない。むしろ恋しい。

ただ、一ヶ月前には早く日本に戻りたいと思っていたものの、今は「戻ったところで以前と同じ文章を出力する自分になってしまうだろう、それはつまらない」と思っている。

 

 

今までと同じ文章を出力しても意味ないし、本当に変わったものを書けるまで隠居したいという気持ちがある。

本当に書きたくて書くもの以外、何の意味があるんだろう。
書かなきゃ、や、書いときゃいいだろ、や、とりあえず書いとけ、の、積み重ねの先には、とりあえず生きとけ、があって、そこは選び取れない、という自分の頑固さが好きでもある。

幼い頃から(小学校の頃から)物語を書いて本にしていた。その時は、バズるぞ、とか、認められたいぞ、とか、褒められたいぞ、すらなく、内なる創作欲によって書いていた。20代後半までそうだった。

そこに戻ること――ただし技術と諦念を身に着けて――が、目標である。諦念、というのは、人は本当に孤独であり、書くことで孤独じゃないフリなんてしても意味ないという諦念である。

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