2016.12.16 Friday
客を信頼する
全て私が悪い。全て私が悪い。この悪さをひきずって、この肉袋で生きていくんだ。
この心の黒い穴を掘れば、本当に、同じ誰かへと続くトンネルになるんだろうか?
ライヴをやればやるほど、孤独をまき散らして「渋澤さんは孤独なんですね」って言われて遠巻きに眺めるオーディエンスが増えていく一方な気がする。
本当に、ここは、同じ誰かへとつながるトンネルですか? お間違いないですか?
でも同時に、私にはまだ孤独が足りないとも思う。私の孤独は分かりやすすぎる。私の孤独は安っぽすぎる。
ライヴハウスでは、ディスとかツイッターとか分かりやすい話とか固有名詞とか使わないと皆の気を引けないと思い込んでる。
音楽を聴きに来た音楽好きな人の前で音楽以外をやるのだから、よほどのことじゃないと皆の気をひけないと思い込んでる。
私は音楽を(多分)好きだけど、愛とか花とか海とか歌う弾き語りなんて10秒と聴けないのだ(その数少ない例外が大森靖子であり、原田卓馬であり、小棚木もみじであった)
こういう、「飛び道具を使わないと客はこっちを見ない」と思い込んでる態度は、ある意味でオーディエンスを信頼していないということだ。あるいは自分に自信が無いということだ。
でもどっちにしろ私は、本当に、心の底から、愛とか花とか言いたくない。
愛とか花とか歌ってる人は本当に心の底から愛とか花とか思ってるんだろうか? 愛とか花とかについて考える日常を持っているんだろうか。私は無い。その2億倍、ディスとツイッターと固有名詞について考えている。だから私はディスとツイッターと固有名詞の話をしている。
私の演目の中で、ライヴハウスでウケが悪いもの、すなわち飛び道具が少なめの文学寄りのものは、私に技量が足りないから聴いてもらえないんだろうか? それとも客の民度が足りないんだろうか?
こんなことを一切考慮せずに書ける純文学という分野って、ある意味最高だよな。誰でも文学賞に応募して、まともな審査員に読んでもらえる。審査員のことをまともだと思っていない人もいるけど、私は、三度応募した小説が大変妥当な評価をもらって返って来たので(二次通過、二次通過、選外)、審査員のことはとても信頼している。
殆どの人間は、ライヴハウスで音楽をやっていない。純粋な意味では。
音楽に付随するもの(MCでも見た目でも悲壮感でも貧乏アピールでも身内のパリピポのノリの良さでも)、あらゆるものがライヴハウスの商品になるしそれはそれで何の問題も無い。なぜなら音楽だろうが音楽じゃなかろうがあらゆる手段を使って目の前の客に己の「生き様」を見せるのがライヴだからだ。
だから、客が少ないことを悔しがって「俺は誰よりも音楽のことを考えてるのに」と言ってるバンドマンは二重の意味で愚かだ。
第一に、君たちがやってるのは音楽じゃなくてライヴだ。
第二に、たくさん考えりゃ振り向いてくれると思い込んでるのは片思いの童貞みたいでキモい。
(余談だが物書きの世界では、「小説のことばっか考えている小説書きはダサい」という風潮がある。女の尻追っかける片手間に小説書くヤツが一番強い、的な風潮がある。参考にどうぞ。)
本当に「音楽のことを考えている」、感度の良い人間が、ライヴハウスからいなくなってしまうのを見ている。
先日、ライヴハウスで、あるイベンターが、ライヴは良いが客入りの悪いバンドマンに「もっと打ち上げとか行って人間関係作れ」的なアドバイスをしていた。まあ、そういうこった。
私は客時代、いつもひとりでライヴハウスに行ってSuiseiNoboAzを観て、ヘトヘトのビッショビショに情動失禁して、「死にたい、孤独だ、SuiseiNoboAzは私を殺しに来る」と思い、その思いを誰とも共有せずに黙って帰った。
打ち上げで喋って良い人だったからライヴきちゃった〜 ハハハハハ。
こんな話耳に入れちまったらライヴハウスの客をますます信用できなくなるぜ。もう打ち上げまで残らん方がいいのかも、と思ったけど、私もまた打ち上げでイベンターの人に会ってライヴを一本とってしまった。私もまあ、そういうこった。
他人の神様の名前をみだりにとなえてはならない。
宗教戦争が始まる。始めた。始められた。
画家が絵を描く前に真っ白いキャンパスを用意するように、料理人が自分の店の店構えにこだわるように、ライヴ屋はハコとオーディエンスと対バンを整えるべきだ、という見解もある。
それとも、どんなキャンパスでも、どんな厨房でも腕を振るえる人間が至高なのだろうか。
私は、あらゆる場所で私を出してきて(文学フリマ、ネット、詩の朗読会、ライヴハウス、友人関係…)あらゆる切り口で私のコアを知ってもらって、客をなんとかかき集めた。だから私の客のことは大変信頼している…………いや、どうなんだろう?
私が客を信頼できないとしたら、それは私が「今までの私」を信頼できていないということだ。「今までの私」が、客を集めてきたんだから。
客を信頼しなければならない。
ハコと対バンを信頼しなければならない。
私が、紙を信頼するのと同じレベルで。
しかしその前にはまず、私が私を信頼しなければならない。
※
文中に出てきた小棚木もみじさんと対バンします。
新宿JAMにて19時より。私の出番は20時5分。もみじさんの出番は21時5分です。ちゃんと私のライヴアクトをYouTubeで見て呼んでくれた信頼できるイベンターさんの企画なので、信頼して臨もうと思います。
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全幅の信頼を置く友人が最高のステージを用意してくれました。
場所もすごく愛着のある場所だし、何より対バンが最高です。こんな経験の浅い私にここまでの大舞台を用意してくれていいのか? ありがとう友人。期待にこたえる
1/16に高円寺ミッションズ。
これる人はこの記事にコメントか、ツイッター@RayShibusawaへのリプライかDMか、メールinfo@rayshibusawa.her.jpへ連絡願います。予約してくれるとテンション爆上げになって明らかにアクトが良くなるので、「まあいけたら行くかも」レベルでもぜひ、ふぁぼか応援感覚で気軽に連絡、よろしくお願いします。
音楽を(多分)好きだけど
の部分の指す、音楽、の定義がそもそも曖昧な気がします
(例外に当たる人たちがあまりにも私的、身近すぎるため論ずるに値しない、普遍性がない)
渋澤さんを目当てとする文学フリマ界隈の人たちからすれば尚更、なんでこの人たちが例外なのかわからないと思います
自分は感覚的にその人たちが例外であることを共有できるけど、それは結局大森靖子界隈を大森靖子界隈と見てしまう感覚と近い気がする
渋澤さんの思う音楽とはって部分を言葉にしてみてほしいす!時間があったら!
ps、自分は渋澤さん、生意気な女だなとは思ってるけど、嫌いだからこんなコメントを残すわけじゃなくて、むしろ言葉をぶつけがいのある面白そうな人だなって思って面白半分で書いてます!